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親子かめはめ波に感動する理由は?ドラゴンボールの親子の物語を考察

親子かめはめ波に感動する理由は?

どうも。マンガタリライターの相羽裕司です。

国民的なマンガとも言える『ドラゴンボール』。

あなたは何度読み返したでしょうか?

かくゆう僕も、けっこうディープな『ドラゴンボール』読者だったりします。

子供の頃からもう何回も読み返しているのですが、大人になった今でも、読むと新しい発見があったりします。

今回は特に、最近気づいた「親子かめはめ波」のシーンって、実はこんなに深かったんだな~っていう辺りをくわしく、そして楽しく語ってみますね。

ちょっとした考察になってますので、この記事を最後まで読んで頂けると「親子かめはめ波」のシーンに詰まっている沢山の「想い」に、今までよりも気づいて頂けると思います。

またちょっと新しい視点で『ドラゴンボール』を楽しんで頂けたら嬉しいです。

 

1.『ドラゴンボール』の基本情報

ドラゴンボール (巻1) (ジャンプ・コミックス)
著者 鳥山 明
出版社 集英社
掲載雑誌 週刊少年ジャンプ
巻数 単行本42巻(完結)

『週刊少年ジャンプ』にて1984年から1995年まで連載されておりました。

コミックスの国内売上部数は1億6000万部以上(2016年時点)。

実際に読んだ人はもちろん、作品タイトルや主要登場キャラクターの名前、大まかな話の内容は知ってる……くらいの人も含めると、ほとんどの国民が知ってるんじゃないかというレベルの国民的な漫画作品ですね。

2.作品のテーマは親から子への受け継ぎ

『ドラゴンボール』という作品のテーマは「親子」です。

「親から子へと受け継いでいくこと」です。

悟空と悟飯の「親子」の話だけだったら、「親子かめはめ波」のシーンは感動するし、まあそうかな~くらいかと思います。

しかし、『ドラゴンボール』には悟空と悟飯以外にも、沢山の「親子」の物語が描かれています。

 

  • ベジータとトランクス
  • ベジータの父とベジータ
  • ピッコロ大魔王とマジュニア

 

などなど、ですね。

背景に描かれていたこれら「親子」の物語が全部繋がってきて、最後に「親子かめはめ波」のシーンで爆発する感じなのです。

ええっ? ピッコロ(大魔王)とマジュニア「親子」の話まで関わってくるの?

という感じかもしれませんが、これが関わってくるのです。

悟空と悟飯の「親子」の背後にも、沢山の「親子」の物語が重なっていたんだな~というところが腑に落ちると、グっと「親子かめはめ波」のシーンの感動が増したりします。

これから、分かりやすく考察していってみますね。

その前にちょっと、ネット上の『ドラゴンボール』考察の有名どころも紹介しておいてみますね。

 

3.ネット上の『ドラゴンボール』考察も「親子」に注目したものは多い

ネット上の『ドラゴンボール』考察でも、やはり作品のテーマとして「親子」に注目してるものは多いですね。

(画像はブログ『銀河孤児亭』2015年6月8日更新分より引用)

「ドラゴンボールはフリーザ編で終わってたら名作だった」とかのたまう輩に鉄槌を下しブウ編がいかに最終章として素晴らしいかを力説するための覚え書き/銀河孤児亭

はてなブックマーク数1300超えという、ネット上で有名な『ドラゴンボール』考察の一つなので読んだことがある人も多いかもしれません。

いくつかのテーマについて考察されてる記事ですが、ベジータとトランクスの話など、やはり「親子」に注目している点が見られます。

 

(画像はブログ『やまなしなひび』2009年8月5日更新分より引用)

コルド大王は“旧世代の象徴”だったのだと今更ながらに気付きました/やまなしなひび

こちらも「親子」に注目している考察です。

コルド大王とフリーザ「親子」が何故トランクスに瞬殺されたのかという辺りは、僕の今回の記事では扱わない部分なので、興味がある人は読みに行ってみてください。

いずれも、コアな『ドラゴンボール』読者としては気づきがある、作品を読む楽しさがさらに増す感じの考察です。

僕の今回の記事の考察は、ゼロから生み出したものではなく、これら二つの記事からかなりのヒントを頂いております。

4.ピッコロとベジータは仲間になり、フリーザとセルは倒された理由

『ドラゴンボール』という作品を考察する際に、よく「敵キャラが味方化する」という現象が語られたりします。

(敵同士だった悟空とマジュニアが共闘/画像は『ドラゴンボール』第17巻より引用)

実はこの現象にも「親子」というテーマが関係しているというのを見ていってみましょう。

『ドラゴンボール』連載当時の週刊少年ジャンプ黄金期だったら、『キン肉マン』に『魁!!男塾』などなど、敵キャラが味方化する漫画は他にも沢山ありました。

しかし、『ドラゴンボール』はそれらの漫画作品の中でも、「敵キャラが味方化する」現象に関して、一本の芯を作品テーマに絡めて通していたというのが僕の考察です。

ピッコロとベジータは仲間になったのに、フリーザとセルは倒されたのは、何故だったのか?

この問いの答えが分かると、『ドラゴンボール』で描かれる「親子」のテーマの深さに気づくことができます。

結論からいうと、

 

  • 『ドラゴンボール』においては、本当の意味での「正義」は「親から子へと受け継ぐ態度を持っていること」である。
  • 逆に本当の意味での「悪」は、「親から子へと受け継ぐことを否定し、自分一人で完全であろうとすること」である。

 

僕はこのように考察します。

なのでピッコロとベジータはより深い作品テーマの点で「正義」で、フリーザとセルは「悪」だったということです。

本当か?

順に見ていってみましょう。

 

●ピッコロ(マジュニア)

仲間になったピッコロ(マジュニアの方)は敵だったし悪いヤツではあったけれど、実は「親から子へと受け継ぐ態度」は持っているのです。

マジュニアは親であるピッコロ大魔王の意志を受け継いで、悟空に勝負を挑んでくるというキャラクターです。

(画像は『ドラゴンボール』第14巻より引用)

「親から子への受け継ぎ」があるので、ピッコロ(マジュニア)はより深い作品テーマ的には「正義」なのです。

 

●ベジータ

同じように、仲間になったベジータも、悪いヤツではあったけれど、作品全体では「悪」役ではなかったのだと思います。

ベジータも親の意志を受け継いで戦っていた……という点を押さえたいところです。

ベジータ特に最初はひどい奴(敵キャラ)として登場してくるのですが、悟空がそんな敵のベジータを認めている点を描写しているのに重要なシーンがあります。

ナメック星でベジータが息絶える際に涙ながらに惑星ベジータの消滅、サイヤ人滅亡の真相を悟空に語った所です。

(画像は『ドラゴンボール』第26巻より引用)

ベジータ、敵のポジションではあったのですが、サイヤ人の王であった父の意志(=サイヤ人の誇り)は受け継ぐという態度を持っていたのです。

そして、そのベジータの父を殺したのも、悟空の親であるバーダックを殺したのも(これは悟空は知りませんが)、フリーザです。

(悟空の父バーダック/画像は『ドラゴンボール』第26巻より引用)

ここに、「親の意志を継ぐ子」という本当の意味での作中「正義」に属しているピッコロ、ベジータと、そういった繋がりを踏みにじる存在としてのフリーザという、本当の意味での作中「悪」、という対立構図が見て取れます。

つまり、物語の大きいスパンではピッコロもベジータも敵役ではなく、「親の意志を受け継ぐ子」という作中「正義」側のキャラクターだったのだということです。だから、仲間になってしかりだった。

 

●フリーザ

「親の意志を受け継ぐ」、もうちょっと広く、「親から子へ、そのまた子へ」という作中「正義」を否定する作中「悪」の概念が、「不老不死」と「完全体」です。

フリーザはもう本当に作中「悪」中の作中「悪」で、親と子の繋がりを踏みにじるだけじゃなく、ドラゴンボールを使って「不老不死」になろうとしているんですね。

(画像は『ドラゴンボール』第21巻より引用)

(画像は『ドラゴンボール』第27巻より引用)

「不老不死」は、親の存在も子の存在も必要ない、自分だけで永遠に存在できればいいという概念ですので、前述した「親から子へ」に対して、明確な対立概念、作中では「悪」側の概念です。

ゆえに、フリーザは同じ敵役サイドで登場してきたキャラでも、ピッコロやベジータと違って、悟空達の仲間にはならないで倒されたということだと思います。

 

●セル

さて、もう一つの作中「悪」概念である「完全体」ですが、これは「人造人間・セル編」のラスボスである、セル「完全体」を指します。

(セル「完全体」/画像は『ドラゴンボール』第32巻より引用)

一人で完全、死んでも(コアを破壊されない限りですが)何回でも蘇れるという「親から子への受け継ぎ」を否定するような存在です。

作中「悪」・セル「完全体」を打ち破ったのは、結局最後にトランクスが撃たれた時になりふり構わずセルに向かっていったベジータの気持ちであったり、最後の悟空と悟飯の「親子かめはめ波」であった……というのが「人造人間・セル編」の決着です。

「人造人間・セル編」は「親子」のテーマを考察する上で特に重要なので、もうちょっと詳しく見ていってみましょう。

5.セル編で描かれる対比される二つの親子像

「人造人間・セル編」では悟空と悟飯、ベジータとトランクスの二組の「親子」に主に焦点があてられています。

一方で、見逃せない点として、ドクター・ゲロと人造人間たちも疑似「親子」であるという点も、実は「親子」という作品テーマを読み解いていく上では見逃せないのです。

 

●悟空と悟飯&ベジータとトランクス

「悟空と悟飯」&「ベジータとトランクス」は対照的ながら、「親から子への受け継ぎ」が双方ちゃんとある作中「正義」の「親子」像です。

(悟空と悟飯/画像は『ドラゴンボール』第34巻より引用)

悟空と悟飯では、最初お互いがくっつき過ぎていたのが、悟飯が自立する感じでちょっと離れていく物語が描かれます。

一方、ベジータとトランクスでは、当初反発し合っていたのが、最後にお互い認め合ってちょっと距離が近くなるという物語が描かれます。

(ベジータとトランクス/画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

(画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

対照的ではありますが、どちらも最終的には親が子を大事だと思って尊重してるのですね。

(画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

●ドクター・ゲロと人造人間たち

ドクター・ゲロと人造人間たちは、生み出した者と生み出された者という意味で、疑似的な「親子」関係にあります。

しかし、「悟空と悟飯」&「ベジータとトランクス」の「親子」とは違って、こちらは親が子を尊重する「親から子への受け継ぎ」の態度がありません。

たとえばですが、16号・17号・18号の体の中には爆弾がありました。

親が子を尊重していたのとは真逆の、いざとなったら殺してしまおうという考えが見て取れます。

ドクター・ゲロは人造人間たちを道具として扱っていたということだと思います。

ドクター・ゲロとの絆が断絶していた人造人間サイド。

その親から子へ受け継がなくてよい、自分だけでよいという思想の最終形が、セルが持ち出した「完全体」という概念です。

もう一つの作中悪であった「不老不死」と同じように、自分一人で完全だ、ということを言い出します。

そこには、親から子へ、子からまた子へ続いていくという、『ドラゴンボール』の作中「正義」である「親から子への受け継ぎ」がまったくありません。

セルは自分の大事な何かを後続の世代に受け継がせる気はありません。自分だけ、自分一人で「完全体」という考えで動いている作中「悪」です。

ゆえに「人造人間・セル編」の最後は、悟空・悟飯親子と、ベジータ・トランクス親子と、「完全体」セルとのバトルとなる訳です。

 

6.子に受け継げるかどうかで死に様が変わる

ここまで、『ドラゴンボール』における深いレベルでの「正義」と「悪」を、以下のように捉えてみてきました。

 

  • 『ドラゴンボール』においては、本当の意味での「正義」は「親から子へと受け継ぐ態度を持っていること」である。
  • 逆に本当の意味での「悪」は、「親から子へと受け継ぐことを否定し、自分一人で完全であろうとすること」である。

 

裏付けとして、何人かのキャラクターの「死に様」を見てみましょう。

「正義」のキャラクターは肯定的なニュアンスでの死に様で、「悪」のキャラクターは否定的なニュアンスの死に様であるということが予想されます。

以下、確かめていってみましょう。

 

●悟空、ベジータ、ピッコロ大魔王、マジュニアの死に様

・悟空の死に様

死に様も、なんか明るいんですよね。

(画像は『ドラゴンボール』第34巻より引用)

受け継いでくれる子に託せるから、死に様もちょっと陽気でいられるというのは、深読みが過ぎるわけでもないと思います。

「人造人間・セル編」で一緒に「精神と時の部屋」に入った辺りから、悟空は悟飯が自分が死んだ後に世界のことを任されられる男だと見てたふし、ありますよね。

(画像は『ドラゴンボール』第34巻より引用)

 

・ベジータの死に様

今回の記事は「親子かめはめ波」のシーンに焦点をあてたので「フリーザ編」「人造人間・セル編」が話の中心でしたが、「魔人ブウ編」だとトランクスを残して自爆しようとするベジータの描写なんかがあったりします。

(画像は『ドラゴンボール』第39巻より引用)

大人になってから読むと、胸がざわついてしまうシーンです。

それでも、死を覚悟した時に、子であるトランクスに大事な何かを託せるというのはイイなぁと思ったりもしてしまう場面です。

 

・ピッコロ大魔王の死に様

悟空に倒されますが、死に際に子であるマジュニアを残します。

(画像は『ドラゴンボール』第14巻より引用)

敵役の死に様ではありますが、後で見てみるフリーザやセルと比べると、マジュニアに自らの願いが託せる分、見事な散り際という印象があります。

 

・マジュニアの死に様

ベジータ・ナッパ戦でピッコロが悟飯を庇って息絶える所とか、僕は小学生の時に読んで泣きに泣いたわけですが。

あの感動がどこから来るかというと、単純に孤独だったピッコロが悟飯に絆を感じて庇ったという点にあるだけじゃなくて、ピッコロ(マジュニア)がピッコロ大魔王という親の意志を果たそうとして果たせなかった存在であるという所に深みがあるのだと思うのです。

つまり、マジュニアは親から生まれてくる子という存在の大事さを知っていた。

だからこそ、敵ではあったけれど、悟空の「子」という存在である悟飯を大事に思ってしまった。

だから、本当の自分の子ではないけれど、疑似的に悟空の子である悟飯に、後のことを託した。

(画像は『ドラゴンボール』第19巻より引用)

子を想う親の気持ちと、親を意識する子の気持ちには、敵だとか味方だとか関係がなかった。

非常に心を動かされる場面です。

●フリーザ、セルの死に様

一方、「親から子への受け継ぎ」がない作中「悪」の二人は、やはり死に様もかなり無残な感じです。

まずはフリーザの死に様。

(画像は『ドラゴンボール』第28巻より引用)

続いてセルの死に様。

(画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

「執着」というのでしょうか。

「不老不死」に「完全体」と、自分一人だけでイイという思想で悪事を行った果てに、自分の大事なものを受け継いでくれる存在もおらず、自分の生に執着したまま死ぬというような描写です。

どんな風に死にたいかというのは人それぞれで難しい部分ですが、僕なんかはやっぱり、フリーザやセルみたいに死ぬよりは、受け継いでくれる次の誰かに後のことは任せた! って感じでこの世から去っていけたらイイかななんて思ってしまいますね。

(画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

7.親子かめはめ波のシーンに詰まっている沢山の想い

では、ここまでの考察を踏まえた上で全てが結実する「親子かめはめ波」のシーンを改めて見てみましょう。

僕なんか、今この記事を書くために読み返していてもウルっとしてしまうのですが、これって、このシーン単独で感動してるわけじゃないと思うのです。

表面的な敵とか味方とか関係ない。

ピッコロ大魔王からマジュニアへの気持ちも、

マジュニアから悟飯への気持ちも(本当の「親子」ではなかったとしても)、

ベジータからトランクスへの気持ちも、

描かれてきた沢山の「親子」の物語の全てがこのシーンに乗ってるから。

積み重ねられた「想い」の熱量に胸を打たれてしまうのだと思うのです。

不老不死? 完全体? なんか違う。単体の人間が強いから勝つのではなく……

親から子へと受け継ぎながら進んできた。これからも進んでゆく。人間の営みこそが勝つ。

(親子かめはめ波/画像は『ドラゴンボール』第35巻より引用)

本当に、魂がこもっている一コマですね。

同じ親子二人でかめはめ波を撃つというシーンがあったとしても、二人とも生きていたならばここまで感動はしなかったと思うのです。

死んでしまった悟空の想いを、息子のご飯が受け継いでくれている。

それが大事なことだっていうことが、伝わってくる。

だから僕たちは、感動するんだと思います。

8.まとめ

最後に、

『ドラゴンボール』という作品のテーマは「親から子へと受け継いでいくこと」である。

それゆえに作品テーマ的な深いレベルでは、

 

  • 「親から子へ受け継ぐ」が作中「正義」で。
  • 「一人で完全体」や「不老不死」が作中「悪」だった。

 

という今回の記事の考察を裏付ける事実をもう一つだけあげてみます。

「人造人間・セル編」の後日談、人造人間の中でも一人で完全をうたったセルは倒されたのだけれど、18号は生き残ってクリリンと子をなした……という事実があります。

「親子かめはめ波」でセルを倒した。一度はセルに吸収された18号を取り戻したことで、また新しい子供が生まれた。

ドクター・ゲロという擬似親とは断絶していた18号も親になった。

新たなる「親から子への受け継ぎ」が生まれた、という流れなのですね。

(画像は『ドラゴンボール』第36巻より引用)

18号もピッコロやベジータと同じく、敵から味方になったキャラクターな訳ですが、ここにも「親から子へ」というテーマが関係しているというのが見て取れると思います。

この場面、なんか温かいんですよね。

セルを倒したことで、悟空と悟飯が守った風景ですね。

(画像は『ドラゴンボール』第36巻より引用)

親が子を当たり前に想ってるっていうのはイイなぁ、なんて思ってしまいます。

『ドラゴンボール』はバトル(戦闘力など)の面白さだけじゃなく作品テーマもけっこう深かったことに大人になってから読み返すと気づきます。

国民的マンガともいえる『ドラゴンボール』という作品ですが。

歴史に残る作品にまでなったのは、「親から子へ、子からまた子へ」という、人間として普遍的な部分を作品テーマとして扱っていたという点も要因としてあるのではないでしょうか。

『ドラゴンボール』というマンガには、まだまだ発見があります。

今回の記事をきっかけに新たな視点で読み返してみたりして頂けたら、一『ドラゴンボール』ファンとしても嬉しいのでした。

 相羽裕司(あいばゆうじ)

ドラゴンボール

本記事を書き上げてから1年半。

またまた『ドラゴンボール』を読み直していた同ライターが新たに見つけた作品のキーワード、「同族殺し」とは?

『ドラゴンボール』作中では、ピッコロ大魔王と神龍、ラディッツと悟空(カカロット)、人造人間17号と人造人間20号などは、「同族」同士で殺し合っていると捉えることができそうです。

そんな「同族殺し」に囚われてしまっていた者達が、悟空という主人公の存在によってどのように自由になっていくのか?

『ドラゴンボール』考察記事の第二弾も、是非お読み頂けたらと思います。↓

ドラゴンボールは「同族殺し」に囚われた者達を悟空が自由にしていく話であると考察してみる

ドラゴンボールは「同族殺し」に囚われた者達を悟空が自由にしていく話であると考察してみる

2019年4月22日
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